モノづくりよもやま話

部品が足りない

 部品在庫を調べていて、足りなくなるのでそろそろ買っておいたほうがいいと思い、いつもの部品販売ウェブサイトを見たら、「在庫0、入手未定」とあった。最近は特にそういうことが多く、いつの間にか製造中止になったり、代替部品を探したり、モノづくりがしにくくなっているのが実情だ。それも、特殊な集積回路だけでなく、コネクタや抵抗器などの汎用部品にも及ぶことがある。気がつくと、いつまでも安く買えると信じていたものが、急に手に入りにくくなったり、価格が高騰して、最後には奪い合いになることがある。というのも、そう信じていることには、実は何も根拠がないからだ。これまで当たり前だと思っていたことでも、意外とそれは頼りないものだ。これは電子部品に限ったことではなく、近い将来に起こるであろう食糧難、エネルギー難、(安全な場所の)住宅難についても、今から意識して準備しておいたほうが望ましい。

 モノづくりをするには、できるだけ代替品や汎用部品だけでも性能を落とさないよう、設計時にあらかじめ考慮しておいたほうがよいと痛感した。これはサバイバル的な考え方かもしれないが、例えば中波ラジオ程度ならば、すぐには枯渇しないだろう汎用のトランジスタや、抵抗器・コンデンサ・コイルだけで組むことができるように、基礎知識を身につけておいたほうがよさそうだ。電子工作に限らず、料理でも農作業でも、モノづくりの段取りや必要な知恵は、すぐに成果が出なくて地味なようだが、長い目で見ていろいろ身につけておいても決して損はないだろう。そういう意味で最近は、電気もガスも石油もないがそれなりの暮らしをしていた江戸時代のことを調べたりしている。いざとなったら水と塩と畑があれば生きれるくらいの知恵と気構えがないと、これからの時代は生き延びることができなくなる。そういう意味で、醤油も味噌も手作りし、どんな食材も無駄にせず戦時中に育ったおじいさんやおばあちゃんの昔話は、よく聞いて学んでおこうと思った。(2022.08.15、終戦記念日)


ラジオとチューナーの回想録

 最近、近所にある古物商(いわゆるリサイクルショップのハードオフ)で、1980年代に作られたと思われる往年のFM/AMチューナーを入手した。しかも純然たるアナログチューナーで、糸掛けドライブのバリコン式である。ずっしりと重いダイアルを回すと、直線の目盛上に指針が動き、アナログメーターを見ながらチューニングする。ずいぶんとレトロな趣味と思われるだろうが、これがたまらなくいいフィーリングで懐かしい。現状はほぼジャンクだったので、はじめは感度が悪かったり、通電してしらばくすると発振してAM放送が聴こえなくなるなど、それらのトラブルシューティングにしばし時間を費やした。接点復活剤でスイッチの接触不良を直し、トラッキング調整をしたら、ようやく安定して均一に受信できるようになり、改めてアナログチューナーの温かい音質に感激した。FM放送もさることながら、AM放送は低雑音で感度もすこぶるよいので、しばらくアナウンサーの美声や音楽に聴き入った。そういえば、昔はみなこのようなアナログのラジオで深夜放送を聴いていたんだなあと、懐かしい気持ちにさせてくれた。また、周波数ステップのない滑らかなチューニングは、特にAM放送の場合は却って同調をとりやすく、弱い信号でも拾いやすい。チューナーは据え置きのため、内蔵アンテナの向きを変えられないので、チューナー本体ごと回していろいろなAM放送を受信してみた。電源もトランス式で、マイコン制御なども一切ないためか、手持ちのDSPポータブルラジオよりもむしろ低雑音で感度はよい。夜間は九州でも、北海道の中波局が明瞭に受信できた。

 昨今のラジオやチューナーは、ほとんどがディジタル周波数表示で、しかもDSP(ディジタル信号プロセッサ)という集積回路を使ったものも多い。DSPのしくみを簡単に言えば、アンテナで受けた無線信号をディジタルに変換(A/D)したのち、複雑な計算をリアルタイムで処理して音声信号を得ると、再びアナログに変換(D/A)するというものである。ワンチップDSPにアンテナとイヤフォンをつなげれば、小難しい無線技術の処理をすべてやってくれるので、あっけないほど簡単にラジオを作ることができる。確かに製作も楽で無調整なため、子供向けキットでもそこそこ優秀な、平均点以上の受信性能を得ることができる。音質の面でも、DSPで復調した音声はクリアでくっきりとしている。欠点としては、混信するフェージング気味の弱い信号は、ディジタル特有のジリジリというノイズに埋もれやすく、聴き取りにくい。以前、DSPを使ったアナログ目盛のチューナーを製造・販売していたこともあるが、折衷案とはいえこれはこれで魅力的な製品であった。ただ、純然たるアナログチューナーと比べると、どんなに似せて作っても、フィーリングの点でなかなか超えられない壁があったことは、正直に述べておこう。糸掛けドライブや目盛盤を校正するには、昭和の偉大な熟練技術者の手を借りなければ実現できそうもない。原始的なメカニズムとはいえ、よくもこんなに精巧なものを日本人は作っていたのか、改めて考えさせられる。

 すべてがディジタル化の波に吞み込まれ、失ったものも多い。バブル崩壊や製造の海外移転で熟練技術者がリストラされ、非正規雇用やアウトソーシングなどで雇用形態が崩壊し、若い技術者への継承がなされていなかったのにも原因がある。パソコンでシミュレーションをするのは得意でも、ものづくりの現場から活きた技術が消えていっている。昭和のステレオチューナーや高性能ラジオは、おそらく今の若い技術者には作れないだろう。工業高校などでも、実習教育の予算が削られて、実技指導が十分にできないという。自国の若者にお金をかけない行政など、実に残念なことである。ラジオは電子工学のさまざまな技術を集約したもので、なるほど歴史的に見てもラジオがはじめに誕生し、その後にテレビやオーディオ、コンピュータや携帯電話、衛星通信などが登場しているので、ラジオはそれらの原点と言ってもよい。しかもアナログ技術は、ディジタル全盛の時代にあっても、常にその理論的な基礎になっている。

 さてそれでは、これから何を目指せばよいのだろうか。アナログチューナーの素晴らしいフィーリングを見捨て、ディジタル化の波に呑まれて、それを過去の遺産として葬り去るべきだろうか。ディジタルオーディオが盛んな今でも、アナログなレコードが復活しているのを見ると、ラジオやチューナーにおいても、再びアナログ的なものが見直されるであろう予感がする。フェライトバー、バリコン、糸掛けドライブ、中間周波トランス、検波ダイオード、信号強度メーターなどを使ったスーパーヘテロダイン受信機でも自作し、ディジタルでは得られないアナログなフィーリングをまずは復刻してみたい。安価で簡単に作れ、とにかく売れるものを作るにはディジタルなDSPで高性能ラジオを目指すのもいいが、それだけでは何かに欠ける気がしてならない。(2022.06.12)


アナログ技術の重要性

 数十年前までは、ディジタル技術をオーディオ装置に応用する、いわゆるPCMという変調技術は、研究所のレベルにしか存在しませんでした。それが時代の進歩とともに、コンピューターをはじめとしたIT技術と融合しはじめ、その成果は人々に多くの恩恵をもたらしました。CDをはじめとして多種多様な記録媒体ができ、インターネットが普及し、テレビもディジタル化されて、情報通信の品質が飛躍的に向上したことは、周知のとおりです。ここで言うオーディオ装置のディジタル技術とは、単にレコードに対するCDという狭い意味ではなく、広く音楽ソースの伝達手段や通信技術に関することを意味します。いっぽう、たとえどのような経路を通じて伝達したとしても、収録された音響そのものや、それが再現されて最終的に人間の耳で聴くことのできる音空間は、依然としてアナログであり、それは自然や耳の仕組みそのものに根ざしているため、変わることはあり得ません。
 以上のような抽象的な話だけでは、何のことかピンとこないかもしれませんが、要するにディジタル技術を媒体とした音楽ソースは、技術が進めば進むほど限りなく透明になり、リスナーはそれをますます意識しなくなります。それはそれで良いことで、歓迎すべきことです。平面テレビの色調再現技術はすでに、4Kや8Kに至ってほぼ完成の域に達したと思います。ところが、それに比べてオーディオ装置は、特にアナログ技術の分野で著しく遅れをとっているように感じます。というのは、これまでのオーディオはあまりにもディジタル技術の進歩に忙しかったため、アナログ技術の進歩がひどく置き去りにされていたのです。そこが革新的に変化すると、どういうことが起こるのでしょうか。
 ウィーンフィルによる恒例のニューイヤーコンサート(Neujahrskonzert)は、毎年楽しみに聴いています。2021年元旦のコンサートは、コロナ禍のため初めて無観客で行うことになりました。というのも、オーストリア政府の賢明で厳格な感染対策により、早い時期から徹底したロックダウンが実施されているからです。ウィーンの楽友協会大ホール「黄金の間」には、一度足を運んだことがあるので、その響きはよく覚えています。このコンサートをぜひ聴こうと思い、弊社の最新式セパレートアンプとフルレンジスピーカーをつなぎ、音声はとりあえずテレビのヘッドフォン出力からとりました。一見するとごくありふれた簡易なシステムですが、演奏が始まった瞬間、アンプやスピーカーという存在が消えてしまったのです。試聴室のスピーカーから、そのホール独特の響きがそのまま聴こえてきました。まさにその会場に耳だけ転送したような錯覚に陥ってしまいました。現代的なディジタル伝送技術の恩恵により、限りなく透明な通信品質が得られたこともありますが、テレビの音声はそれでも16ビットに過ぎません。それにもかかわらず、それを再生して実際に耳で聴く出口となるアンプが変わると、こうまで良くなるのかと、正直言ってびっくりしてしまいました。あまりにもクリアで臨場感があり、途中の介在物がなくなったという感覚は、やはり実際に聴いていただくまでは、どんな言葉を尽くしても納得されないでしょうが。
 一方、ゲストやインタビューの音声は、かなりオン気味でマイク特有の色付けがあり、不自然な感じがしました。モノーラルのピンマイクなので、それは致し方ないでしょう。また、同じシステムでCDを聴くと、録音状態の違いがとてもよく聴き分けられました。特に、収録マイクの音質や、録音機器における歪みや音割れでアナログ音声が変形している様子も如実に分かります。たまたま同じ日の昼間に、テレビでサッカーの実況中継を聴いたときも、広い会場での歓声や応援の鳴り響き、選手の動く音がとてもリアルに聴こえました。ライブコンサートで素直に集音している音楽ソースも、やはり非常にスケール感があり、その臨場感は生演奏さながらでした。一方、スタジオ録音でミキシングしたものや人工的なシンセサイザーの音楽は、演奏の空気感があまり出ません。やはり、収録時の音質はとても重要で、音場をそのまま集音する方が、自然さにおいては圧倒的に優れています。(2021.01.02)


わが社の音作り

 弊社製品を愛用されるお客様や、試聴に来られた方から、わが社ではどのように音作りをしているのかを尋ねられることがときどきある。だが実際には、音作りというのはあまり考えたことはなく、ただ感性に従って音楽的な響きがする方向へ進んでいるだけである。もちろん電子回路を扱う以上、電気の基本であるオームの法則やフィルタ特性、半導体の性質などを無視するわけにはいかないので、試作の段階でちゃんと計算し、定数を決め、測定器で動作確認はする。しかし、試作してみて音楽的にダメな回路は潔く捨て、別の方法を試してみる。そうした繰り返しは確かにあるが、最終的にうまく鳴ってくれた回路を製品に採用している。結果として、たいていシンプルで理に適っており、最適な状態を安定に制御できるものが残る。
 アンプやスピーカーの歪が少ないほど音楽的な響きがするかというと、どうも断定はできないようだ。楽音(musical tone)はふつう、基音(基本波)の上に倍音成分が乗っている。例えば、クラリネットとサックスは外形こそ似てはいるが、共鳴管の性質上、前者は奇数次倍音が多くてノコギリ波に近く、後者は偶数次倍音が多くてまろやかな音色になる。アタック時には特に倍音が多く含まれる。これらの倍音関係が狂うと、不自然で気持ちの悪い音質になる。だが、三極真空管のシングルアンプでは偶数次倍音の歪が多く、却って柔らかくアナログ的な音質になるため、愛好家にはむしろ好まれるようだ。CDの音質がアナログディスクよりも情報不足な印象を受けるのは、この偶数次倍音の欠落によるものだと思う。ディジタル音源をアナログ音源に近づけるには、オーバーサンプリングよりも、基音から偶数次倍音を無限に導いて補うとか、位相補正してアナログ的にわざと歪ませることに鍵があるかもしれない。
 最近、移転に伴いささやかながら50m2(15坪)ほどのショウルーム・試聴室を開設して、リスニングルームの音響空間(音場)について考えさせられることがある。これまでより2倍以上も広くなり、しかも鉄骨モルタルの建物であるが、うるさくない程度の響きで心地よい。もう少しデッドでもよいだろうが、よく鳴る位置を探るとスピーカーが部屋の空気全体をしっかりと駆動している感じがあり、不思議なことに部屋のどこにいても明瞭に聴こえる。逆に考えれば、部屋もエンクロージャーの一種ではあるが。定在波が意外と少なく、スピーカーと部屋の整合がうまくいっているのかもしれない。例えて言えばインピーダンス整合がとれているアンテナのようで、パワーアンプからのエネルギーを淀みなく空中に放射する。低域から高域まで能率よくスピーカーが鳴り、しかも奥行きや楽音の見通しがよく、ホール的な拡がりさえ感じられる。こうした音響抵抗を音響インピーダンスとか放射インピーダンスというらしい。音響工学は難解な物理学であるため研究中だが、おもしろいテーマではある。余談だが、ホコリが床に泳いでいると響きが悪くなるらしく、きれいに掃除すると音がよく鳴ってくれる。


技術とデザイン

 『アーツ・アンド・クラフツ運動(Arts and Crafts Movement)は、イギリスの詩人、思想家、デザイナーであるウィリアム・モリス(1834 年~1896 年)が主導したデザイン運動である。美術工芸運動ともいう。ヴィクトリア朝の時代、産業革命の結果として大量生産による安価な、しかし粗悪な商品があふれていた。モリスはこうした状況を批判して、中世の手仕事に帰り、生活と芸術を統一することを主張した。モリス商会を設立し、装飾された書籍(ケルムスコット・プレス)やインテリア製品(壁紙や家具、ステンドグラス)などを製作した。』(Wikipedia より抜粋) 該当サイトへ

 これを読んで、今の時代の何かに似ていると感じられたかもしれません。ホームセンターに行くと、海外製の安価なCD ミニコンポやラジカセが数千円で売られています。まあ音が出れば何でもいいやと買ってはみたものの、あまりにもひどい音ですぐに飽きてしまって売り払い、そのような哀れな製品は、粗大ゴミとなって短い生涯を終えます。安物買いの銭失いとはこのことでしょう。中身を見てみると、けっこう部品もたくさん使っており、中には日本製?(おそらくコピーでしょう)の半導体さえ見かけます。全体に作りが粗雑で、いかにも丁寧な手仕事を感じさせません。それはさておいても、もうちょっと設計を良くすれば、少ない部品でもっといい音になるのにと思われる点が多々あります。シンプル・イズ・ベストとはいえ、粗悪品と紙一重ではないかと思います。つまり、ただシンプルな作りで終わっているのは粗悪品ですが、いっぽうで音響的な質を高めるためシンプルな設計に練り上げていくのが、丁寧な手仕事による製品であると考えます。Made in Japan は健在です。


トランジスタよ永遠なれ

TO-92パッケージの小型トランジスタ

 近ごろは世界的な分業化が進み、日本ではすでにリード線のついたトランジスタは次々と製造を終了している。それらはより小型の表面実装品に取って代わり、市場在庫はまだあるものの、TO-92パッケージと呼ばれる日本製トランジスタは、残念ながらほとんど「新規設計非推奨」となってしまった。表面実装品は、混ざると型番が分からなくなるので、困ったものだ。
 そこで止むを得ず海外製の半導体素子に目を向けてみた。はじめは品種や型番に不慣れだったが、思っていたよりも多くの優れた増幅素子があることがわかり、試しに使ってみたところ、なかなかいい音を出してくれる。海外製の小信号用トランジスタの中には、日本製では考えられないような高性能・高出力で、しかも電流増幅率(hFE)、解像度やスピード(Cob)の点でも十分に満足できるものがある。製造された文化背景の違いからか、音質面でもむしろ弊社の理想に近いものもあるため、当面は市場在庫の心配をしたり、増幅素子の選択に迷うことはなくなった。インターネットが普及したおかげで、簡単に入手できるようになったので、もはや使わない手はない。蛇足だが、主要部品のほとんどが海外製になった今、弊社の製品に刻印された“MADE IN JAPAN”の表示が通用するのも、それほど長くはないかもしれない。


バカにつける薬

 世間では「バカにつける薬」は無いことになっている。ことオーディオ機器に関しては、巷でいろいろなグッズが売られている。接触がバカになったコネクターやスイッチに塗布する接点復活剤やその類いであるが、どうも思ったほど効果がない。酸化した皮膜を除去する一定の効果は認めるが、それをそのまま放っておくと金属の接触面に油膜が介在することで、むしろ音が死んでしまう。それよりも試して一番効果的だったのは、ピカール(油脂の入った研磨剤)などで酸化皮膜を除去したあと無水エタノールできれいに拭き取り、10Bの鉛筆で金属表面をまんべんなくこすりつけ、最後に乾いたティッシュでよく拭き取る。導電性のカーボン粉末が凹凸を埋めて、より均一な面で金属同士を接触させるようにするわけだ。すると、接点による歪みが減るので、音が滑らかになる。
 また、ネジは振動で緩んだり、アースポイントなどでは接触不良が起こる。せっかく作った立派なプリント基板も、止めネジが緩んでいたら台無しになるばかりか、ハンダ付け不良に次いで初期不良の原因にもなる。ネジの緩みを防止する液(一種の接着剤)をほんの少し塗布してからネジ止めするとよい。これも一種の「バカにつける薬」ではあるが、肝心なところに使うと効果的だ。

音楽と芸術のはなし

音楽の力

 『芸術の目的は、アドレナリンの瞬間的な放出ではなく、驚きと穏やかな心の状態を、生涯かけて築いていくことにある。』—— グレン・グールド
"The purpose of art is not the release of a momentary ejection of adrenaline but is, rather, the gradual, lifelong construction of a state of wonder and serenity." —— Glenn Gould
グレン・グールド(1932〜1982)

 偉大な哲学者たちは、音楽の力と人間自身そして社会への影響について、また音楽の力による文明の飛躍と没落についても精通していました。人間生命の本質および人間の意識にたいして調和的で肯定的な音楽は、人間の知性と感情、意識を高揚させ、逆に不調和で否定的な音楽は人間そして文化に多くの災いをもたらします。このような音楽の力は、いわば両刃の剣であり、人間と文化をはるかな高みに向上させることもあれば、計り知れない堕落と狂気、退廃と没落へと陥れることもあります。協調的で平和的な音楽が人間を純化し、高度な文化を育む温床であるいっぽう、戦争や世界的な不和を生み出す時代背景には必ずと言ってよいほど否定的、退廃的、破壊的、扇動的で悪意に満ちた不調和な音楽が流行していることは、第二次世界大戦、ヴェトナム戦争や朝鮮動乱の歴史を見ても明らかです。クラシック、ポピュラー、ジャズ、ブルース、ゴスペル、ロック、カントリー、民族音楽、映画音楽、童謡、宗教音楽、行進曲などのジャンルに関係なく、また作曲家や時代背景にかかわらず、音楽には人間の意識にたいして肯定的(ポジティブ)な作用をもたらすものと、否定的(ネガティブ)なものの両者が混在しています。それらはリスナーに作用し、良くも悪くも意識の変化として現れてくるからです。
 人間の心の奥底に浸透する力を持った音楽には、ある種の魔力というものがあります。その一翼を担うメディアアートにおいても、この力を正しい方向へと導く責任の一端があることを忘れてはなりません。音楽は人間の左脳と右脳の結びつきを、よりよい方法で発育させ、さらには音楽にたいしてアクティブに関わるときに、他者と自分が「ともに生きる」ということを想起させます。ですから、ただ受け身で音楽を聴くだけでなく、楽器を演奏したり声を出して歌うなど、より積極的な態度で臨むことにより、さらに音楽の価値が発揮されます。本当に調和した音楽は、聴く者と奏でる者の双方に喜びをもたらすものであり、人間としての品格を高めるために欠かせないものであると感じています。

メディアと音楽

 音楽には人間の意識にたいして肯定的な作用をもたらすものと、否定的なものの両方があるということはすでに述べた。かつては、モーツァルトの作品を聴きたいと思えば、誰かの生演奏を聴かせてもらうか、街のコンサート会場に赴くかしかなかった。そうしたことも、人口が増えた今日では、多くの人が一斉に押し寄せるのは難しくなっている。音楽に触れる機会は、現代社会においてメディアを通じたものが確かに多い。それでは、生演奏ではないメディアを通じた音楽、たとえばラジオに始まり、アナログディスク、CDやコンピュータ、インターネット配信、いわゆる「缶詰にされた音楽」には、果たして人間に影響を与える力があるのだろうか。
 メディアアートを支える科学や技術はやはり中立的なもので、空気を媒体にして音を聴いているのと同様に、技術的なメディアも一つの伝達手段にすぎず、人間の意識にとって良い影響を与えるかどうかは、実際に収録された音楽や音響そのものに依存する。それはそのとおりなのだが、心に届く音楽を聴くためには、できるだけ生演奏に近い音響空間を再現できる、品位の高いオーディオ機器を利用できれば、より望ましいのは言うまでもないだろう。さらに、演奏者の姿を写した写真や映像が伴うことで、演奏会場の雰囲気を感じることができ、より深い感動を得ることができる。したがって、リスナーにメディアを意識させないことが、メディアにとって一番大切な役目である。そうした意味で、オーディオデザイナーのすべきことは明確になる。

音楽の一元論

 音楽とはふつう、空気の振動となった音を通じて、耳によって聴くものであると思われています。ところが、必ずしもそれだけが音楽であるとは限らないケースがあります。例えば、夢の中で話し声や歌、自然の音や楽器の演奏を、空気を媒介とせず、おそらく深層意識のなかで直接に聴いていることさえあります。これは、かつて聴いた音の記憶を思い出すのとは異なり、その場で実際に音を「聴いて」いるような体験のことです。さらには、作曲家や演奏家たちが、散歩をしながらメロディーが表層意識に浮かんで響いてきて、素晴らしい曲を着想するといったエピソードが数多くあります。そのように考えると、音楽にとって物理的な現象は、「かつて意識のなかに音楽が存在した」というたんなる二次的な結果でしかなく、音としてそれを表現した瞬間に現れては消えていくメロディーやハーモニーという、実在する意識の産物にすぎないと思われます。いわば、「音よりも前に意識が先にあり」です。
 もし機械的に、無作為に羅列した音でしかないならば、それは初めから「音楽として実在した」意識の結果ではないので、人の心に「音楽を呼び覚ます」力を持っていません。それはたんなる「音」にすぎず、「音楽」ではないので、人の心を動かすことができません。いっぽう、ひとたび作曲家や演奏家の意識のなかに生まれ、音として発せられた「音楽」は、どのような形であれ、リスナーの心に伝わり、種がまかれ、育まれ、やがて「音楽」という大きな樹木に成長します。それは生演奏の場に立ち会った場合のみならず、物理的な媒体としてのオーディオ装置を介して聴く場合も、それは当てはまります。つまり、誰の意識のなかにも「音楽」という原型が初めから存在しており、有機的なつながりによってそれを呼び覚ますために、音という物理的な刺激が用いられているにすぎません。音楽はいわば普遍的な暗号、先天的な共通言語であり、誰もがそのなかに生まれつき持っている共通の普遍意識に基づいています。音楽という存在は、人間の意識の世界の奥深さ、不思議さを改めて問うものであると感じています。

科学と技術のはなし

TIY ― Think It for Yourself,自分で考えよう

宇宙の深淵に拡がる無数の星団

 広大無辺な宇宙を前にして、我々人間はちっぽけな存在でしかない。ただただ、その果てしなく深遠な広がりに畏敬の念を抱かざるを得ない。たとえ我々がその成果を自ら誇る科学技術といえども、この広い宇宙のどこかにいるであろう地球外の知的生命体のもつ高度なテクノロジーと比べれば、まだまだ足元にも及ばない、原始的で稚拙なものであろう。また、我々には依然として自然にたいする基本的な理解が欠けていたり、誤った考えに陥っている点も多々あるだろう。そのような現状からいかにして脱却し、人間の精神面とバランスのとれた順調な進歩の道へ引き戻すかを探るとき、まずもって第一に、現代科学で常識とされる諸概念をあらためて検討しなおす必要がある。要するに、我々は自然のことをほとんど何も分かっていないのだ。真実は、自らの手で時間と労力をかけて証明しなければならない。そして物事には順序がある。この壮大な課題に取り組むに際して、高度なテクノロジーをいきなり追い求めるのではなく、我々はまず最も基本的な事柄からもう一度じっくりと検証し直し、自然を正しく理解しはじめるのが第一歩となる。
 例えば電気や磁気は、今日では広く知られている現象で、なるほどそれらを応用したさまざまな装置や機器もあるのは確かだが、そもそも電気や磁気という現象がなぜ起こるのかは、意外と分かっていない。コンピュータやさまざまな電子機器が身の周りにあふれてはいるものの、電気や磁気、さらには電子や半導体には実用に供する効果や働きがとにかくあるので、実際のところそれらをうまく利用したデバイスや便利な装置を考案して動かしているにすぎない。だからといって根本的な原因、原理的なしくみ、それに関する自然の法則が十分に解明されているわけではない。電気屋はしょせん電気屋、機械屋は機械屋で、物理学者や形而上学者ではないという線引きをどこかでしていて、世の中で売れる製品をとにかく開発して金儲けをしたいエンジニアはたいてい、むずかしい理屈まで自分が知らなくてもいいと思っている。それがすべてではないが、資本主義経済システムの中に組み入れられた商業ベースの技術開発には、そういう面があるのも事実である。だが、そうした利潤の追求という発想ばかりだと、それ相応の成果しか得られない。さらに、便利さや利点だけを強調し、副作用やデメリットは隠蔽する。第一、消費者が賢くなり、不都合なことが知られては、モノが売れなくなるからだ。
 両刃の剣と言われるように、科学や技術にはポジティブな面とネガティブな面が必ずある。厳密に言えば、科学や技術それ自体はあくまでも中立的、論理的で自然のしくみに従ったものであるが、それらを使う人間や集団、国家の目的や志向によっては良い結果も悪い結果も生み出すということである。一本のナイフが、調理や生活に役立つ道具になる反面、使う人間の動機によっては凶器にもなりうるのと同じことである。結局、人間自身が真っ当なことを考えているかどうかが問われてくる。そういう意味で、何をしでかすか分からない頭の狂った人間に、高度な技術を教えるべきではない。また、人口過剰によって多くの人々の欲求を満たすために、自然環境に膨大な負荷を与える中途半端な技術を用いざるを得ない現代社会であるが、そうした状況の解決に向けて真剣に取り組まなければ、いずれ手遅れになる。
 戦争は科学技術を発展させてきたという偏った考え方もあるが、それは戦争に勝つために徴用された頭脳たちが死にもの狂いで研究した、汗と涙の結晶である。確かに戦時下では、各国でさまざまな研究開発がなされていたが、それによって得られた成果の半分は、残念ながら人類を死に追いやるものであった。その一方で、戦争によって多くの優秀な頭脳が失われたことも事実である。今やそれが経済戦争に取って代わっただけのことである。純粋に真実を探究しようという理想主義者は、この世界では金儲けの道具になれないのだ。「人間は自分が考えたとおりの者になる」というのは、まさに正論であり、企業としての基本姿勢が問われるのも同じ理由である。
 コペルニクスやガリレイ、ケプラーらによる考察と天体観測のデータを分析してアイザック・ニュートンが発見したとされる万有引力の法則についても、同じような状況がある。引力あるいは重力がそもそもどうして生じるのかを知らなくても、人工衛星は地球上空を周回している。今日では誰もが知っているので疑問を抱くこともなく、とにかくそうなっているということで常識とされてはいるが、そもそも物体間に働く力の原因やエネルギー源は何なのか、重力は自然界の基本的な力として本当に存在するのかという疑問にはっきりと答えることは、今日の科学ではまだ早すぎるようだ。しかも電磁気学はニュートンの時代にはなかったので、重力と電磁気の相互作用あるいは同一性はほとんど解明されていない。いや、重力は重力、電磁気とは関係ないと科学者は言う。だが、地球に磁場ができる理由、自転のしくみ、地球自体の構造、地震のメカニズム、電離層や大地の電荷による電気的現象、放電現象としての稲妻、オーロラの発光現象、地球を周回する電磁波とその影響、宇宙空間の不可解な現象などは、はたして古典的な力学だけで考えられるものだろうか。
 気球や飛行船、飛行機やドローンなどの飛行体は、地球の重力に逆らって空中を移動する手段の一つだが、それがどうして空を飛ぶのか、物体が空中に浮かぶとはいったいどういうことなのか、飛行機の空気力学的な原理だけで説明する本ではどうも納得がいかない。何百人も乗せてしかも重たいエンジンをいくつも付けた飛行機が、空気の力だけで飛んでいるというのはどうも腑に落ちない。紙飛行機ならそれでも納得できるが、飛行機に乗った時、あの主翼がどれだけの荷重を支えているのか、一度は自分でよく観察して考えてみてほしい。また、カブトムシやスカラベなどの甲虫類はあの重くなってしまった体で空中を飛んでいるが、その羽根をバタバタさせるだけで必要な浮揚力を得るという説明はどこかおかしいと思わないだろうか。第一、たいしたご馳走も食べていない昆虫自体に、水平に滑空するくらいの推力はあっても、重力に抗して浮揚するほどのエネルギーはないように思う。それでも彼らは飛んでいる。我々が動力で空を飛ぶようになったのはたかだか120年ほど前にすぎないが、昆虫は数億年ものはるかな昔からその飛行術を体得している大先輩なのだ。自然をあなどってはいけない。我々人間はもっと謙虚になって、彼らから空中浮揚の極意を伝授してもらわなければならない。物理からいきなり昆虫のはなし?——その謎はいずれ分かるだろう。
 生体模倣技術(バイオミメティクス)は、そうした意味で新しい技術を導くだろう。オーストリアの優れた科学者ヴィクトル・シャウベルガー(1895~1958)が、“Nature as teacher”(自然から学べ)という言葉を残してくれた。人が歩くと前に進む原理も、タイヤを回してクルマが走るしくみも、非常に能率がわるいにしても、それらは自然の法則に基づいている。だが、それらのメカニズムをありきたりの説明で納得するほど、現代人はもはや幼稚でなくなっている。さらに深い洞察を我々は切望し、予感し、探究しており、もっと賢い方法で推進力の問題を解決できることを期待している。宇宙空間における移動装置も同様に、無尽蔵の電気的エネルギーを宇宙空間から取り出す技術にかかっている。もはや歯止めの効かない人口過剰によって石油や天然ガスなどの化石燃料を採り尽くし、自然環境をこのまま汚染し続けたら、我々にどういう未来が待っているか想像してみてほしい。頭は使うためにあるのだ。知恵をしぼれば、できないことはない。
 地球の大気圏内あるいは重力圏内では、人間の身勝手な行為で地球の生息環境がどうなろうと、たとえ人類が滅亡したところで、それは自業自得である。だが、将来ひとたび星間空間に出るような時代になれば、太陽系や銀河系を危険に陥れるような思い上がった振る舞いは、自然の法則がそれを許さないであろう。そこには厳粛な、絶対に越えてはならない一線がある。我々はいずれそのことを身をもって習得するだろう。
 また、現代の宇宙論や天体物理学についても、ビッグバンで宇宙が始まったとか、重力波が発見されたとか、ブラックホールの写真を撮ったとか、空間が曲がっているとか、ダークマター(暗黒物質)がどうしたとか、およそ一般の人には理解できないことを主張している。科学者は本気でそう思っているのだろうか。もしそうだとしたら、小学生の科学教材として売られているモーターや発電機の実験キットを自分で作ってみてほしい。そして、その前で宇宙はどうやってできているのか、何度でもよく観察し、考えてみることをお勧めする。事実をありのままに捉えるところから、本当の科学は始まる。そもそも現実世界というものは、たんなる数学上の抽象概念ではない。理論しか扱わない学者は、どうも自然にたいする正しいイメージを持っていないように思う。科学はいつまでも仮説とか思考実験という虚構のなかにいてもよいのだろうか。
 本当の自然は、我々が想像しているよりもずっと単純明快なしくみではないだろうか。身近にある自然は、つつましく静かにしかも淡々として自然の法則どおりに営んでいるではないか。自然の驚異に気づき、探究すれば、多くのことを学べるはずである。今はまだ少数派だが、すでにこのことに気づきはじめた人びとが増えていることは、未来の希望である。一見すると複雑怪奇に思えるような自然のしくみは、謎が解けるに従って、さらに理解しやすく明快なものとして捉えられる。未来の科学や技術は、もっとシンプルで一貫したものになるだろう。いや、そうあるべきなのだ。地球外に知的生命体がいるとしても、純粋に自然学的な観点に立って探究する姿勢は全宇宙で共通なはずで、我々が目指そうとする内容もまた、そうでありたいと願う。どんなことでも、まず考える態度としての基本姿勢を確立することが大切で、どれほど努力するかあくまでも二次的なことにすぎない。
 現代科学の理論として体系化されていることでも、一度それらを脇に置いて、純粋無垢な子供のように、初歩的でもありのままの現実の姿を観察することから始めてみるのも、あながち間違った方法ではないように思う。そこでまず、簡単に手に入る身近なものを使って、自然の基本的なしくみを理解していくことにした。磁石やモーター、地球ゴマといった器具を使って実験しながら、電気や磁気、重力というものをさらに深く掘り下げるのは、とてもよいことである。ただ、ありきたりの説明を鵜呑みにしてそれらのしくみを納得させるのは望ましいことではない。そういった文部科学省選定の教科書丸暗記的なやり方だけでお茶を濁すような大人は、子供に「知識」と称した先入観や固定観念を植え付けることになり、真相に迫ろうとする感性の鋭い子供の探究心の芽を摘み取ることになる。分からなかったら百科事典でも読めというのは、いささか子供にたいする礼儀を欠いた発言である。親や教師自身が自然現象をよく分かっていないから、それは仕方のないことではある。だが、子供に嘘を教えてはいけない。そういうときは、自分も分からないから一緒に考えようと正直に言えばよい。ただ大人の役目としては、怪我や危険がないかどうか、子供のかたわらで見守ってあげる必要はある。物事をよく観察し、論理的に自分で考えるように促すことが大切である。
 その一方で、クルマの燃費が良くなるエネルギー石だとか、部屋に置くだけで宇宙の波動が発せられてオーディオの音が良くなると謳った装置とか、霊感商法まがいの、およそ効果のはっきりしない高額で怪しげなオカルトグッズが巷にあふれているが、そうした類いの代物をけっして安直に鵜呑みにしてはいけない。すべてがそうだというわけではないが、紛らわしいものが確かに多い。そもそも売る側がその原理と効果を詳しく正確に説明できないようでは、誰も信じないだろう。だが、騙されないための唯一正しい方法は、信じることではなく、自分で確かめ、理性的に考え、その効果を見極めることだ。自立したひとりの人間として、それはあくまでも各人に課せられた責務である。プラセボ効果と同じで、良いと信じればそれなりの効果はあるだろう。それは本人が作り出している自己催眠のようなものではあるが。どこかの工学博士が奨めているとか、日本人は特に権威に弱い。だが、自然の法則は権威によって成り立っているわけではない。そうしたことを見抜くためには、肯定も否定もせず、ただ理解できないことは立ち止まって自ら中立的に考える習慣が大切である。自分で考えるという習慣は、誰でも初めはむずかしいものだ。しかし、根気と前向きな姿勢があれば、いずれそれを克服できるようになる。某国営放送の人気番組で女の子が言う「ボーっと生きてんじゃねーよ!」(“Don’t sleep through life!”)という決めぜりふは、意味としては実に見習いたいものだ。
 我々のテーマである“TIY ― Think It for Yourself”という標語は、身の周りにあるあたりまえだと思い込んでいる事柄を、あらためて自分の力で考えようとすることで、子供から大人まで等しく求められるような、自然への理解、将来の科学技術の芽を育てる基本姿勢を表している。大人にとってもそれは、長年のあいだに染みついた先入観や固定観念という巨塔をこわして批判的に捉え、純粋に物事を観察する自己教育の場として適切であろう。磁石で遊んだり、簡単なモーターを作ってみたりするのは、初めはばからしく思えることでも、それがどうして動くのだろうかと観察し、目の前で起こっていることを自分でじっくり考えることが大切である。それは小さな科学者の一歩にすぎないが、宇宙を理解しはじめた人類の偉大なる第一歩でもある。